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2007年6月

「DIVと私」 第9話

伊豆・赤沢に向かう車の中、これまでのDIVと工藤さんのストーリーをインタビューしました。1973年ごろに初めて作ったロシア製一眼レフカメラのハウジングのこと。これまで作ったハウジングの苦労話。いずれも日本のスキューバダイビングの歴史と平行して長く、そして深く関わってこられた工藤さんならではの、興味深い話ばかり。当初、抱いていたとっつきにくい印象と違い、とても気さくにそして以外にも饒舌に話してくださる工藤さんに、驚きそして楽しい時間となりました。3時間弱のドライブ中、ほとんどずっとお話いただいた中で、何よりもおどろいたのは、これまで製作し販売してこられたハウジングの数でした。「3000個以上だよ」と事もなげに言われ、「えっ??3000個ですか!!」と聞き返してしまった。それまで量産型のベストセラーとして売ってきた「トリエステ」というハウジングが3年強の期間で600台。手作りハウジングのボリュームはもっともっと少ないものと思っていて、数人がかりの当時でも年間せいぜい100-150台で、それ以前はもっと少ないだろうから20年で、せいぜい数百台~1000台前後と思っていた。(ちなみに、同取材でお伺いしたJUNONの小野沢さんは月に3-5台でそれまでの創業以来10年ほどで通算50-70台くらいとのことでした)ところが、当時のDIVの生産量は年間で300~400台強。それでも、連日電話や来店されるお客様のニーズに応えきれず、2-3割はお断りせざるを得ないとのことだった。正直これには驚き、そして自分がいかにハウジング市場を知らずに「知っている気」になっていたかを思い知らされました。自分が過小評価していた、DIV,そして工藤さん自身のイメージは間違っていました。それだけ多くのニーズがこのDIV製アクリルハウジングにあることをまったく知らず、量産型のハウジングが断然メジャーだと信じていたのです。工藤さんの言う「適度に手を抜き、簡単に作るから安く、早く作れるんだよ。量産タイプみたいに、全部理詰めで正確に作ろうとすると、高くて、難しいものになっちゃう。みんながそれを求めてるわけじゃないから、うちみたいにいい加減に作るハウジングがあってもいいと思うんだよね」という気負いの無い、割り切った考え方に、今となっては素直にうなずくことができた。正直価値観はまったく異なるところにあるけれど、工藤さんの作る製品をそれだけ支持する方々がいらっしゃるということで、自分の物差しでは計れないニーズの多様さを実感したものでした。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

PS.いよいよ明日は DIV HANDSのオープンです。現在夜の12時ですが、まだまだ準備中。実際のところ、店舗部分を仮オープンし、パーティションの裏側の工房は週明け7月5日より工事スタートし、すべての工事、準備が終了するのは7月10日過ぎになりそうです。とりあえず、オープンいたしますが、少しずつDIV HANDSを発展させ、便利で使い勝手の良い水中撮影機材の工房&パーツショップとして多くの方々にご活用いただけるよう、スタッフ一同精進してまいりたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

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「DIVと私」 第8話

「フィッシュアイ」を創業後、4年ほどの間は、ヨドバシカメラ店員、大型車両の運転代行、週末インストラクター、といった稼ぎのための兼業に加えて、雑誌のフリーライターを続けていました。あるとき「月刊ダイバー」の別冊企画で「ものづくりの達人」という企画があり、私は手作りハウジングメーカーとしてある意味好対照な印象を持っていた「JUNON」の小野沢さんと「DIV」の工藤さんの「ものづくり哲学」を取材させていただくことになりました。今は亡きJUNONハウジング製作者の小野沢さんは、当時現役の工業デザイナーで、生み出されるハウジングも美しく、機能的で、プロ御用達の「高いけど欲しい!」ハウジングNO.1。対して、我らがDIVの工藤社長を取材させていただくにあたり、ふと「あの方のものづくりに“こだわり”があるんだろうか?」などとふと心配になってしまった。取材のアポイントをお願いした際に、「こだわりについて語って頂きたいんです」と伝えると、「ハウジングなんてのはただの箱なんだから、簡単に作って、簡単に使うってのがこだわりっちゃあ、こだわりなんだけどね」とお答えいただいていた。不安をかかえたまま池袋に転居していたお店をたずねました。すると、突然「俺のものづくりのルーツを取材するんなら、ここにはそれはないんだ。今から良かったら赤沢の工房に行かない?」とのこと。すでに午後3時くらいだったでしょうか。妻との食事の約束を思い出した私は、「夕方7時ごろまでに都内に戻れるでしょうか?」と伺い、「それは無理だから、じゃあここでやりますか・・」という展開を期待しました。ところが「いやいや、私のルーツというかこだわりを説明するのに、1時間や2時間ここで話したって、理解できないよ。赤沢に来れば一目瞭然なんだけど?」と引くに引けない雰囲気。「そうですか!じゃあ、とりあえず着替えを取りに戻って、夜に再度お邪魔してご一緒するということでは・・・?」との変化球も「大丈夫、大丈夫。ふとんや着替えは何か適当にあるから!」とかわされ、逃げられず。清水の舞台から飛び降りるつもりで「わかりました。ではよろしくお願いします!」。こうして、工藤社長と伊豆へのちょっと不思議なドライブが始まりました。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIVと私」 第7話

あるとき、潜水部先輩で当時「月刊ダイバー」のカメラマンとして活躍されていた瀬戸口さんから、「ライターをやってみない?」と誘われました。まずは、米国サンフランシスコで開催予定のDEMA SHOWの取材記から。そろそろ独立を考えていた私はチャンスと思い、当時の編集長H氏と担当Wさんに「お願いします!」と頭を下げました。打合せの後、瀬戸口さんに取材先で見たという「ウルトラライトアーム」なるアームが良さそうだったから買ってきてほしい、と頼まれました。DEMA SHOW会場で「ウルトラライトアーム」のブースを訪ねたところ、軽くて、がっちりしまり、デザインも良く、当時主流だった他社のアームよりも割安で、「これはイケル!」と直感しました。当時の手持ちのお金で買えるだけ買った私は、早速ダイバー編集部に届けに行きました。そこで同アームを見た編集カメラマンのS崎さんや、当時の発行人のTさんも、購入してくださり、その後知人関係だけであっという間に完売してしまったのです。ヨドバシカメラの店員、運転代行、週末インストラクター、そして「月刊ダイバー」誌での「水中撮影機材お講座」なる連載など多くの兼業をしながら、貯まったわずか50万円のお金を元に「ウルトラライトアームシステム」のパーツを購入して総代理店となり、1995年4月に水中撮影機材商社「フィッシュアイ」として独立したのでした。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIVと私」 第6話

大学の潜水部で同期だったK子と結婚。先々のことを考えるようになり、当時水中関連事業を縮小気味だったタートル商会の退社を決意しました。とはいえ、さてこの先どうしたものか・・と思案していたところ、ネクサスハウジングの製造元「アンティス」の古沢さんから、お誘いをいただきました。当時ネクサスは新興のブランドながらも、ダントツの人気を誇るハウジングでしたから、「あのネクサスを売らせて貰える!」というだけで、居てもたってもいられず、前のめりでお話を聞かせていただきました。ただ、聞くと条件は本社の岡崎勤務とのこと。当時妻も仕事を続けたいと思っていたことから、新婚なのに単身赴任は必須でした。先々をじっくり考えるべく、会社を休んでパラオに出かけたところ、同じホテルに宿泊中だった海洋ジャーナリストの永田雅一(キャプテンマック)さんとお会いしました。永田氏とは、私が学生時代にアルバイトで勤務していた「スキンダイバージャパン」の取材や企画などで何度かお会いし、その後タートル商会で撮影機材の販売などで担当させていただいた間柄。事情を話し、悩んでいる旨伝えると、突然「うちに来ないか?」と誘っていただきました。テレビ関連の仕事にも強い興味のあった私は、とりあえず会社を辞め、古沢さんにはお誘いいただいたお礼と、翻意のお詫びを伝え、キャプテンマックにアシスタント兼、撮影機材手配担当として週1-2回勤務することになりました。ただし、確定収入は月に5万円だけという厳しい条件でしたから、ロケのないときはニコンのヘルパーとしてヨドバシカメラ西口本店でカメラ販売の店員を。夜は大型車両の運転代行として、そして週末はNAUIの派遣インストラクターとして働き、将来の独立に備えてお金を貯めておりました。

(なんだか「私の履歴書」っぽくなってきましたが・・・つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIVと私」 第5話

魚オタク、マクロオタクの私は、大学卒業後に中堅ディベロッパーに就職し、逗子マリーナのマンションや、リゾート物件関連の営業を担当させていただいたのですが、当時雑誌「月刊ダイバー」のカメラマンだった潜水部先輩のSさんや、「ダイビングワールド」の編集をされていたKさんの仕事を見聞きするうちに、水中写真関連の仕事が頭から離れなくなり、常連と化していた水中カメラ店「タートル商会」からのお誘いに気持ちが抑えられずに転職。当時のベストセラーハウジング「トリエステ」の販売や「アクアティカ」の輸入業務に携わりました。そんなとき、あるお客様から「DIVが出している水中で話ができるマウスピースがあるんだけど取り扱えないか?」との問い合わせがありました。DIVは「ハウジングメーカー」だと思っていた私は、「DIVがマウスピース??」と怪訝に思ったのですが、念のため電話をしてみると、電話に出られた女性(工藤社長の奥様ではなかったかと・・・)が、「ええ、やってますよ。なんだかこんなもので本当に水中で話ができるのかしらねえ、って思うんだけど。皆さん、大丈夫、ちゃんと話せましたって言うもんだから・・・」とのこと。仕組みはよく覚えていませんが、とてもシンプルな構造のアイデア商品的なものでした。変わって電話口に出てくださった工藤社長の遠慮がちな、でも得意気な商品説明を聞いているうちに、この面白いオヤジ(失礼!)に興味が沸き、学生時代に抱いていた嫌なイメージが緩和され、ちょっと親しみをいだいたのでした。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIVと私」 第4話

その後、当時唯一の水中カメラ専門店だった銀座タートルでPENTAX LX用のアルミ製ハウジングを購入。夏に沖縄の伊江島にガイドヘルパーとして居候しつつマクロ撮影に没頭しました。

PENTAX LXを選んだのは、実はDIVを最初に訪ねた時に、自分の持って行ったNIKON FAを「ダメなカメラ」とされた私は、工藤社長に「どんなカメラを選べば良いのですか?」と聞いたところ、「PENTAXがいい。特にPENTAX LXというカメラはファンダーも大きいし。高いけどね。」と教わりました。タートルを訪ねた時、棚にPENTAX LX用のハウジングがあるのを見て、「これが欲しい!」と思ったのは、実は最初に工藤さんから聞かされていた言葉がアタマの隅にあったからでした。当時のアルミ製ハウジングとしては比較的安かったとはいえ、ボディが19万円、ポートが5万円。フォーカスギア、絞りギアが各15000円。カメラ、レンズ、ワインダーなどあわせてやっぱり40万円以上。家庭教師や長距離トラックの補助運転手、ダイビング雑誌(今は無きスキンダイバージャパン)のライター&パシリなどをしながら、ようやく手に入れました。ちなみに、そのときのタートルの店員が今は写真派からの支持も厚い小笠原「フィッシュ・アイ」の笠井さんでした。予断ですが、私が「フィッシュアイ」を創業した数年後、当時まだ小笠原「KAIZIN」のガイドとして活躍されていた笠井さんがブースを訪ねてくださり、「大村君、俺今度独立するんだけど、前々から自分のショップの名前を「フィッシュアイ」って名前にしたいと思ってたんだけど、いいかなあ?」と聞いてこられました。正直、笠井さんは当時の私のことなど眼中にないと思っていたので、聞いてくださったことが逆にうれしくて、「もちろん!」と笑顔でお答えしました。これまでそれほど大きな関わりがあったわけでもありませんが、初めてハウジングを買ってから、当時すでに10年近くが経っており、不思議な縁を感じたものでした。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIV と私」 第3話

1ヶ月後、待ちに待ったハウジングを手に、伊豆に潜りに行きました。深場フェチだった私は50mを少し超える水深でハナダイの撮影を試みていたところ、フォーカスダイヤルがかみ合わず、浮上しようとしたところ「ミシミシ・・・」と嫌な音が。不用意に水中でポートを岩にぶつけてクラックが入ってしまったのです。一気に水がまわり、人生初の水中ハウジング撮影は無残な結果に終わりました。かなり落ち込んだ私は、翌日、落合の工房を訪ね「40mでぶつけたら壊れてしまった」とやや浅めの水深で遠慮がちに伝えたところ、工藤社長はハウジングのことはさておき「そんな水深に潜っても何も居ないでしょう!海は20mより浅いところが一番面白いんだから、そんなところに行くほうが悪い!」とお叱りをいただき、ますますしょげてしまった。ハウジングは応急処置をしていただいたものの、すでにカメラもレンズも回復不可能。気が滅入っているから、全部ハウジングのせいにしたくなる。

「もう二度と来るもんか!」と心に誓って工房を後にしたのでした。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIV と私」 第2話

アルミサッシの引き戸を開け、「こんにちは!」と声をかけたものの、待てど暮らせど誰も現れず、少しずつ声のボリュームを上げていると、店の奥からアクリルの粉を体中にまとったおじさん(工藤社長)が現れ、ややぶっきらぼうに「何?」と一言。ちょっと面食らった私は「水中ハウジングを作って欲しいんですが・・」と切り出すと、私の持っているカメラを見るなり、「今忙しいから時間かかるよ。難しいね。」と一言。夏までに水中写真デビューしたいと思っていた私はちょっとあせって、「2ヶ月ありますが、無理ですか?」と聞き返すと、「NIKONのカメラは水没するし、使いにくいよ。そんな使いにくいカメラ選んじゃダメだ。」とのこと。後でわかったことだが、当時の工藤さんは大のNIKON嫌い。そんなこと、ちっとも知らない私は自分の愛機を「ダメなカメラ」と烙印を押されショックのあまり「そうですか・・・」としばし無言。すると、工藤さんは何も言わず店の奥に消えていこうとされる。あせった私は「あの、座間味でお会いした写真家のNさんが、ここに相談したらハウジング作ってくれるとおっしゃったので来たんですが」と粘ってみたところ、もう半分店の奥に消えかけた工藤さんがくるりと振り返って「何だよ、先に言ってよ!」と戻って来て下さいました。レンズとカメラを今一度お見せし、シャッター、フォーカス、ニコノス用シンクロソケット等など希望を伝え、「1ヵ月後に」と言われたときは「これで水中写真が撮れる!」と滅入っていた気分もすっかり回復。足取りも軽くお店を後にしたのです。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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「DIV と私」 第1話

今から20年前のこと、学生だった私は春休みを利用して沖縄・座間味島でガイドヘルパーをしておりました。ある日、雑誌の取材で来島されていた海洋写真家の撮影アシスタントを勤めさせていただく機会があり、初めて水中撮影という仕事の現場に立ち会うこととなりました。写真家が水中で使用していた一台のアクリル製ハウジングに興味を持ち、夕食時にお訊ねしたところ新宿の落合にある「DIV」なる工房で作られたものでした。当時私は大のサカナオタク、図鑑オタクで、いつか自分で魚の写真を撮ってみたいと思っていたのですが、当時はハウジングは高嶺の花で最低でも50万円程度はするものと聞き、あきらめておりました。写真家いわく「10万円程度で作ってくれるよ」とのこと。帰京後早速、当時の愛機「NIKON FA」という一眼レフカメラと「Ai Nikkor 105mm F2.8 Macro」を手に、落合の工房をお訪ねしたのでした。(つづく)

DIV HANDS 臨時店長 大村謙二

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